望む生き方に変わる自己信頼の在り方

自分を信頼しきれるか…随分と自分のテーマでした。それを知りたくて。

最近「ナリ心理学オフィシャルブログNali Psychology」のナリくん、ビシっという感じでこうやって書ける人って素晴らしいなぁと尊敬します。

ナリくんの、このブログの時と同じように「うん、うん」と思ってまった。全てが正しい!共感!とも思わないけど「悩みがないの向こう側へ」「未来の私は信頼できるぜ」って大切ですよねって感じた。どうあったとしても。

幸せと感じる事しか起きないようになる、ではないから、出来事はやってくる。

問題がダメとか悪いことではなくて、自分が気づいた時からいつだって生まれ直しはできる。と思っている。手遅れなんかないよ。自分が覚悟を決めたら。

この6年で何度か生まれ直しがやってきて、その生まれ直しの手前では問題起きたし、向き合うプロセスで大崩壊で放心状態なんだけど…。過去も今も未来も何も問題も悩みもなかった…と気づけるように自分と向き合うことには価値があると思うし、年齢なんか関係ない。

「嫌なこと考えるとそれを引き寄せちゃう」とか言う人いるけど。
そうやって、怖いことから目を背けて刹那的に生きてる方がはるかに怖いわ。ギャンブル人生やん。 笑。
それにそうやって「未来に起きるかもしれない問題」に向き合えないことが、その問題が起きた時に「終わる」いい証拠だし。

「嫌なことを考えるのが嫌だ」
「家族が死ぬなんて考えられない」ってのが

そもそも「終わるフラグ」じゃん。

人間は生まれた瞬間から死ぬことが決まった存在だ。
目を背けたからって死なないわけじゃない。だったら、向き合って受け入れる方がより有意義な人生を過ごせるだろう。

私はこんな彼のような、どんと来いみたいなドッシリ感で全てを受け入れていきたいから、この文章に惹かれるし、最大限そんな生き方をしていくことが私にとっては安心を感じる生き方。

「なんでそんな顔できるの?」と真面目に質問された、笑笑。別に恥ずかしくないから。

私の恥ずかしさは、自分の器の小ささや未熟さを隠す方がよっぽど恥ずかしい。

無理矢理恐れをこじ開けましょうって話ではなくて、ふとした感じる恐れや不安から、それを払拭するためにどうにかするのではなく、自分がどうあっても大丈夫という信頼を深めていけたとしたら?

自分の創り出すストーリーを持ち続けていなくても大丈夫だと心底理解し、自分の創造する世界を変えることが実は周りに純粋な愛を与えることだとわかるから。

かわいそうな私や自分の愛や正しさの証明を世界中に発信しなくていいし、被害者意識を認めない加害者にならなくてもいい。

自分の世界を楽々変えても大丈夫なんだよ。

本当なら離婚せず仲良くしたい、お金というものに囚われず安心して暮らしたい、家族みんな幸せであって欲しい、病気が良くなるならその方がいい。そうやって自分が本当に幸せになることを望み、許可できるのは自分しかない。

何の囚われもないのだとしたら、どうしたいのか?この世界を理解し、自分の今、現状の生活を見て、自分が望まないと始まらない。

自己信頼はいきなりできるものでなく育くんでいくもの。

どうあっても大丈夫だよ、自分。

via PressSync