この世界で自分の物語を客観的に理解するとはどういう事か?

無意識の話なので自分では

わかりにくいのですが、

観察するクセをつける練習を

繰り返すとこの世界の見方に慣れてきます。

前回こんなブログを書きました。

自分を観察するクセをつけるってこと。

サイキック能力が特別なわけでもないし

使命に生きることが

生きる目的なわけでもない。

だから本当のことに、本物に出会った!

という感覚を得たいストーリーとか

幻想だとかわかった上で、

「使命に生きるんだ!
決めてきた道を生きるんだ!って
ストーリーを楽しみたいんだ、
チャレンジしたいんだ、ゾっクゾクする!」

という事を自分が選択し

そういう世界に入り込んで

楽しんでもいいよーって感じです。

それぞれの生きたいストーリーが

あるのだから、それぞれが思う存分に

この地球を楽しんだらいい。

だからわざわざ難しくする必要はない。

が、しかし…

人のストーリーが気になるんす。

それでこそ地球の醍醐味といいますか…笑

(あれ?自分の生きてるストーリー
あの人よりつまらなくない?)

(あの人みたいになったら幸せかな)

(あの人よりはマシかなぁ。だって
あの人かわいそうすぎるじゃん)

そうやって自分の物語をしっくり

いくように周りと比べながら

確認しながら生きて

自分を理解してくってストーリー。

だから比べてもいいし

比べる相手に何を感じたとしても

自分を観察してみるきっかけだし

自分ストーリーを発見できるのだから。

ささいなココロの揺れすら。

がしかし、こうやって書いてることや

様々なあらゆる情報も

自分のフィルターを通してでしか

表現できないのだから。矛盾といいますか…

言葉にしてるのもたまに不思議な

感じがします。でもせっかくの地球に

生きているわけだし、テレパシーも楽だし

言葉を書く、話すことも楽しむ。

「何をしたら?何を学べば?どうなったら?」

そこにチカラを入れてもいいけど

本質の土台が、揺るがない根のように

どっしりとできたら?

自由にクリエイトする物語の創造が

始まる。ストーリーと理解しているから

何もしなくても何かしていても

変わらないということです。

お仕事、愛する人、伴侶との歩き方も

自分がココロから望むパートナーシップを

創造したらよくて、正しさの「こうあるべき」

という関係性にしなくても大丈夫。

もうそういうのはお腹いっぱいだし

自分がごまかせなくなってくるので

結果としてエネルギーが循環しにくい。

自分の身の回りの生活、関係性を見たら

どんなストーリーがおのずと

見えてくる話です。

こんな小説、絵本、映画の世界に

生きたいというのが1人1人それぞれあって

その世界に必要な情報を集めていき

まるで本物の世界のように生きている。

その本や映画の中ではなくて

本や映画から飛び出して、

その小説のお話や映画のストーリーを

客観的に見られたり

読めたりすることを知っていますか?

映画や小説はある意味安心して

楽しめませんか?どうあっても。

それが自分が見たいものなら。

見たくない映画、つまらない小説を

いつまでも我慢して最後まで

見たり読んだりするタイプですか?

(お金出して本買っちゃったしな…
お金払ったから最後まで映画見ないと
もったいないしな…)

その我慢の世界がまんま自分の

人生にも現れるだけなのかもしれません。

「やりたくない事は

やりません!」って放棄することを

心地良いならすればよいですが

多くの方は「ただやることをやる」と

知っている。

だから両極に振れすぎることなく

ちょうどいいバランスを知っていけたら

どうでしょうか?

喜び、ワクワク、楽しさなどを

求めるあまりに振り子のようにあまりに

反対側のエネルギーに振り切ることを

繰り返すのはまぁお好みなのですが

結構疲れて消耗するよねってお話です。

自分の人生が本や映画と同じで

自分が幻想だと理解できるから

優しさや思いやりから

この全てある世界でどんな世界を

創りたいかイメージして

自分ができることをやっていく。

平和であることをどこまでも体現してく。

何も無い世界で満ちるから
全てある世界を創造できる。
自分が出したものが
そのままかえってくる世界の中で。
via PressSync