「ずくなしゃ他人の桶洗う」
教えていただいた方が亡くなられたお父様に言われた言葉だそうです。南信飯田にのことわざのようです。名古屋生まれの私は最初ずくと聞いてもわからなかったので聞きました。
例えば「○○さんはずくがあるで…」ってのは面倒くさがらず根気よくやるよねって褒め言葉と理解してます。
「ずくなしゃ他人の桶洗う」
ではこの言葉は?
怠け者に限って、自分のやるべき事をしないで、他人の余計な世話を焼きたがる。面倒くさがらず自分のやる事をやりなさい。
という意味なのだそうです。昔お父様に言われた時は、
自分の桶を洗っても誰も褒めてくれないけど他人の桶を洗えば褒めてもらえるから、当然他人の桶を洗うでしょと思ったそうです。
本当に尽くすために生まれてこられたのでは?と思うくらい慈愛に満ちた方で母性溢れる方なのでそう思われたのかもしれません。
だからこそ今回の人生では自分を大切にする、自分のいのちに集中することが大きなテーマでチャレンジなのかもしれませんね。
自分の事ばかり考えてはいけない、
他人の迷惑にならないように、
人の事を思って行動しない
言葉だけを受け取っていくて、自分の事は横に置いて、他人のために行動するべきだと捉える方も出てきそうですよね。それは間違いではないけど、自己犠牲までして他者へ尽くす事が承認欲求を満たそうとする不足感、愛のエネルギー枯渇している状態が内側に強ければ、褒めてくれるように、愛されるように自分の事より他人の世話に一生懸命になっていくのは欲求を満たそうとする行動で自然な事なのかもしれません。
自分を大切にと言われても、不足、欠落感を埋めたいのは人間の自我の欲求ですから、その仕組み、カラクリに気づいていく事が大切です。
そうしないとずっともう自分を大切にしたいのに、他人の世話なんて焼きたくないのに、助けて欲しいと人がやってくる。私は自分を生きたいのに!
と被害者意識になってまで、自分が欲しい、愛が足りないと叫んでいる声に気づこうとしない。
自分の事をしていても誰も褒めてくれないから…だから他人の世話をして感謝されて嬉しいと感じたい。
となってしまいます。
でもそれは偽りの愛でいつまでたっても満たされません。
欲しいのは小さな頃にもらえなかったと捉えてしまって無いと決めつけた両親からの愛。
自分が理想とする愛をもらえなかったうちなる子どもが泣き、嘆き悲しみ、怒りを感じ、それを抑えています。
それを物語にせず、感情を言語化せず、エネルギーとして昇華させていく。
これをコツコツやっていくと自分は身体でも感情でも思考でもなかったと、囚われていた自分の自我の意識に気づいていきます。
自我と本当の自分が統合され社会で調和し生きていく実践が続いていきます。まるで違う世界の見え方で歩んでいく練習です。
自分は今はこの段階で、わかっているわけでも、悟ったわけでも、覚醒したわけでもありません。
宇宙の真実の愛の循環はまず自分を愛することからなのだそう。
自分を認め許し受け入れていくと、内側からいのちが自由に生きていいのだとチカラが湧いてきます。
自分のいのちが本当に喜ぶ事をすれば、結果それは周りの方々へも安心や喜びの波紋が広がる事になっていく。それが自分勝手や他者の事を考えない迷惑な人になるどころか、「私が全てである」というつながりを感じ生きるから、自然と真心や思いやりが生じていきます。
私へ…

