高野山リトリート体験記④〜瞑想〜

高野山について、弘法大師空海について、お釈迦様について、仏教、密教について、般若心経について、曼荼羅について、大切なことを凝縮し、エッセンスのつまったレクチャーを聞くからこの高野山リトリートの体験がさらに深まります。

そして実際に般若心経を唱えます。自宅で般若心経を1人あげるより皆さんの声も一緒だから振動を感じやすい。何も考えずただお経に集中する。

その後、阿字観瞑想を体験しました。去年までと違うのは、この阿字観瞑想を上の写真の金剛峯寺という高野山真言宗の総本山でしていたのですが、今回はマナさんのレクチャーを聞き、会場でそのまま阿字観瞑想をしました。

カラダをゆるめ姿勢を整えて、呼吸を整えること、そして吐く息の時にアーと声を出していく。そうすると筋肉のかたさが気になってきた。胸鎖乳突筋、斜角筋、首回りがガチガチだねーと。そして横隔膜が呼吸をしているのに動いてない感じ…だんだん息苦しくなってきた。
息が吸えない…少しパニクった。

これが潜在意識に内在してるものの浮上なのかなぁと思い冷静さを取り戻し、アーっと声を出すことに意識を向け直した。

するとアの音がカラダの内側で震えはじめ、ほかの皆さんのアの声も響いてきて考える脳が静まっていく。

阿字観瞑想体験、マナさんの説明や誘導も分かりやすく今回が一番深い体験になりました。

ここからは過去のお話…

瞑想は嫌いだった。初めての瞑想体験は小学生。親の考えで夏休みの1週間、蒲郡市の大徳寺という曹洞宗のお寺で子どもたちだけの大授戒会に参加していた。

私は嫌だった。母に帰りたいと言ったら怒られた。せっかく連れてきてあげてるのに…と。

なぜだ?私は行きたくないのに、家に居たいのに…(怒)

お寺は全然楽しくもなんともない場だった。他の子どもたち同士走り回ったり、プールへ連れて行ってもらったり、おしゃべりしたり。私は1人おうちでいた方がホントに安心できた。だからプールへは行かないと1人お寺で留守番してた。拗ねるくらい嫌だった、笑笑。

朝早起きして本堂の雑巾がけして、座禅を体験し、眠いなー、ヤダなーと思ってると、お坊さんが棒でパシッと肩を叩く。

もー!!!!なんで?
なんで私はこんなとこにいるの?

私の中でお寺は嫌なところになり、大人になるにつれて宗教にまつわる家族、親戚のトラブルもあり、短大時代にこれまた曹洞宗の短大を知らずに選んでしまい、仏教学や夏休み1泊2日で
福井県永平寺での修行体験が単位になる…

もぉ寺は嫌なんだわ!その時々の私はわかっていなかったけど、相当な憤りを持っていた。

宗教に対しての偏見もたくさん。宗教はココロの弱い人がすがるものだとか、宗教は騙してお金を巻き上げるとか、宗教は集団で怖いとか、
信仰すると命を失うとか、黒魔術、悪魔教的な
私の中にある情報、エネルギーをシータヒーリングワールドリレーションズセミナーで解放した。

そもそも宗教ってなんだ?よく「うわぁ〜それ宗教っぽい」そうやって言われてきたし言ってきた。信仰してますということ自体、怪しさが
増すような感覚。

自分の中の思い込み、概念で世界を創っているだけなのだ。だから知らないから抵抗する。

要するに無知なままで嫌だ、なんか嫌だと言っているだけ。

じゃあ何が嫌なのかを内側を掘り下げてみると
私の子ども時代のように、嫌なこと、親と離れて寂しいと感じてて帰りたいと言ったのに聞き入れてもらえず、逆に母を怒らせた。愛する人とは離れていなきゃいけない。それが一番いい事なんだと信じ込む。

自分の気持ちを押し込めた悲しさや気づいて欲しいという苛立ちで本音からドンドン遠ざかる。

事実をただ事実として見ていく。知らないことに対して怖いと感じてる自分を知ることが大切だなぁと思うのです。怖くて当たり前だから。

今までの自分がなくなっちゃうようで嫌。その自分は実は真実は知らないかもしれないと疑いもしないということに気づくことの大切さ。

自分がこうだと決めている世界はホントでしょうか?

知らない世界に一歩踏み出す勇気は、あなたの中に創ってしまった境界線を超えること。

例えば国同士に起こっている争いとかがなくなったらいいなぁと思いませんか?国同士の争いに一個人がすぐにできることはないかもしれない。でも一個人としてできるのは、自分の内側の創ってしまった境界線、分離感を薄めていく勇気。

それが頭では理解できなくても、魂は知っている。外側の世界となんら変わらない事を。内側の世界は外側の世界を映し出している。

平和を祈る。この先もずっとこの地球が守られていくことは誰かがやってくれることではなく、自分のココロの内側にあるのです。

瞑想とはそんな想いをさらに深め、自分の内に入り平安などこまでも穏やかな自分の内側の愛に繋がる時間なのかなぁと思います。

日常で起きる様々な感情が揺れる出来事は起きて当たり前。感情が揺さぶられるから自分を内観し、瞑想で体感する自分の内なる愛に繋がるあの感覚に戻ることを選択する。

私はこれを知るのと知らないのとでは、日常生活が全くといっていいほど変わったのです。

宗教、仏教、信仰することに対しての偏見、囚われ、またキリスト教についても同じくらい偏見があった。思い込みに気づいて知らなかった自分を知ってホントによかった。

幼稚園ではカトリック、小学生の頃からお寺での体験や短大時代、ホームステイ先ではプロテスタント、社会に出て葬儀会社に勤めてさらに仏教ってよくわかんないって拒否反応を強め、何度も様々な宗教のお誘いを受け、さらに怪しいと毛嫌いし、嫌なのに身近にあったもの。それは本質に気づきたくて私が求めていたことだとようやくわかった。

瞑想を実践していくこと。

まだまだ入り口だと思ってます。修行、苦行ではなく瞑想をさらに深めていくことは続けていきたいなと思う。

クリスタルボウルの波動、音色は脳がシータ波になりやすいので瞑想する自分を整えていくのに役立ってきました。

この瞑想により体感して私が掴めた領域でしかまだお届けすることはできませんが、クリスタルボウルの音色と共に、平安な在り方のエネルギーをお伝えできたらと思います。

via PressSync