高野山リトリート体験記②〜食べる瞑想〜

宿坊では精進料理になります。

豪華なのです。人が集まり食べるのだけれど、
食事の間じゅう沈黙となります。人と笑いながら美味しいね〜、楽しいねと食べる時間は普段いつも味わっているので、食べることを通して、自分の内に入り何を感じるのか気づいていきます。

野菜一つ一つがこの口に運ばれてくるまでに想いを馳せる。大根が育てる方の手によって種から土、太陽、水、栄養を受け取り育まれ収穫され、農機具たち、農機具を作る人たち、収穫されたを運び、販売する人、買う人、調理する人、大根を料理する調味料一つとってもどれだけの人が関わっていて、お料理を器に並べ、運ぶ人、どこまでも巡って広がっていく。

食べることも宇宙そのものの大切な一部。

食べることがわからない、なぜ食べるの?何を食べると美味しいのか、何を食べたいのか?
食べるとはなんだ?正解を探そうと思考を巡らせて疲れるんです、正直。

その思考が停止した瞬間、そもそもそう考えていられる事自体が食べられていて、しかも安心安全だ。それが幸せなのかもなぁ…と今こうしている全てまるごと感謝がわいてきた。

美味しいがんもが噛んだ瞬間ジュワッと出汁が出てくる。噛むと色んな味が口の中に広がる。サクッと噛んだ瞬間に出る天ぷらの音。

リトリート2回目参加までは人の食べる様子が気になった。食べる速さとかも。人に合わせることで変だと思われないだろうという勘違い。怖かったからホントに意識が外にしか向かない。

今回はあまり気にすることなく食べたら、超絶早食いな私だと思いこんでいたけど、実はそうでもなかった。

食べる瞑想を理解したなんてことはとても言えない。でも去年と体感が違うのはわかる。食べることへのすごい恐れから憤りを感じ味わうことすら拒絶した。

普段私はどれだけ食べること(生きること)を根本的に拒絶し、美味しいと思うフリ(喜び生きている風)をしていたのか…そして反作用の法則で異様に食べたくなる(生きたい欲求)と1年前ハッキリ認めざるをえなかった。

一年後、諦めずに向きあったからまず人と一緒にご飯を食べて見られる、見ることからの意識の解放、気になることが減った感じ。

これってわたしにはすごいことなんだって帰ってきてから気づいた。

まだまだコツコツ向き合っていく。一体性を深く味わい体現することは食べることも同じとさらに瞑想を深めていきます。

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