愛し愛されるという感覚は全員違う。あなたは私、私はあなた。古代マヤ文明から学ぶ「インラケチ」

愛、愛する、愛されるって感覚や認識って

みんな違うけれど、違うことが

よくわからなかったりする。

全員違っていい。

好き、嫌いを大切にして

嫌いなものは嫌いでいい。

許さなくていい。

全てを愛さなくていい。

受け入れたくないほど嫌なんだ

そうこころから認めてみることを

感じたって別に悪くも何ともない。

そうやって腑に落ちたから体感した

「インラケチ」が繋がった感覚。

この言葉を聞いたのは

4年前に10ヵ月間をかけて学んだ

「アイアイ講座」という学びの

中だった。このアイアイ講座ってのは

とても哲学的で、その時に

すごく理解した!っていうより

後から後から「これがアレか⁈」みたいな

のが繋がってくる。未だに。

今回思い出した「インラケチ」

古代マヤ文明の言葉だそうです。

頭で理解しようとすると

まずもって苦しくなるパターン。

インラケチは

正しさを伝えているわけではないから。

「自分の愛や喜びはハートから

のヴァイブレーションで世界を

創造する」と意図したら

それがあらゆるところで

仕事でもプライベートでも

流れるようにこんなに

心地よいと感じているのが

自分の真実だから残しておきたい

記録として書いています。

人の存在を自分の視点観点で

観ていくのが私たち人間。

全く新しい捉え方やコミニュケーション

や自分の在り方を体現してみていて

今、とても面白いと感じている。

人が自分をどう見て捉えようと

やっぱりそこには人の視点観点が

あるだけ。その奥の存在の光は

誰一人として変わらない。

パートナー、家族、周りの人たち

全員違う。それが深く理解できるから

「インラケチ!」と

軽やかに交わせるんだなぁと。

もちろん今すぐ世界のすべてを

あなたはわたし

わたしはあなた

という感覚で全てを捉えていける

わけじゃないけど、この感覚を

一度体験したのはやっぱり大きくて

思い出せるし

その枠みたいなのが

あるとするならば、

どこまでも波紋が広がるように

インラケチ!と交わせる枠を

広げていくだけなんだよねと思う。

だから無理しないことも

わかるし、嫌なものは嫌とわかる。

それを感じるくらい

本当は愛し愛されたい事を

思い出したいのかも。

この世界のすべてがわたし。

私が世界であるという感覚のあとに

きている。

醜さも冷酷さも無関心さも

憎しみも悲しみも憤りも

孤独感も痛みすらも

自己犠牲ではなく

目を背ける必要もなく

どれもこれもそれもあれも

ただあるだけであなたはわたし。

そこに囚われ続けない。

嵌り込んでも何も無いどころか

さらに迷路に迷い込むから。

自分の世界を映し出してる

映写機はいつだって見えない

ようになっている。

さらにその奥の光があるから

映し出せる。光があるからこそ。

国や人種や性別や環境とか状況

は一切関係なく。

違っていいんだ、

というのがわかればわかるほど

境界線がはっきりしてきて

「違っていいんだ」と

強調しなくてよくなっていき

一つに近づいていく。

あなたの中の愛

あなたにとって愛すること

あなたにとっての愛される感覚

どのようにされたら愛されると感じるのか。

どうしたら愛するって伝わっていくのか。

わかっているようで

わかっていないことに

気づくかもしれないし

改めて意識すると

自分が本当に望むことが

見えてくる時がある。

知っているつもりだった…

知らない自分に出会うと

知らなかったんだと気づかされる。

何度も何度も新鮮だ。

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