愛しているからこそ失うのが怖い

LINEのビデオ通話やzoomのおかげで離れたところでも対面でなくともセッションしやすくなりましたね。そんなことを思いつつシータセッションだった。

感情は幾重にも重なっている。だから浅い領域で終わらせるのではなくその土台となる思考に辿り着き解決、完了していくことが大切。

例えば愛する家族に感じる激しい怒りの奥に隠された気持ちがある。

怒りが悪いこと、怒りではなく許した方がいいというフィルターでクライアントさんを見ていたら、許し、仲直り、仲良しが平和で良いことだという観点から着地点をヒーラーやセラピスト側が定めてしまい、今は解決、仲直りを望んではいない人に対して微妙にズレた質問になったり、決めつけたり、相手の深く眠ってしまっている声を聞き逃す。

人の話を聞くということは、アドバイスとは違う。無責任に自分の善を押し付けることでもない。いかに自分のフィルターを外せるかという自分のクリアリングした領域が傾聴にも現れる。

セッションの内容に戻ります。

怒りの奥にある、愛すること、愛されることへの恐れ。愛しているからこそ、愛されているとわかっていて感じているからこそ、大切な家族にずっとずっと側に居て欲しいと強く思う。その反作用で失うことへの恐れが益々強くなる。そして愛を拒絶することの欠乏感が満たされていない不満を大きくしていく。

以前Netflixで「神の日曜日」という実話を基にした映画を見た。主人公の牧師さんの「無条件に愛することが恐い」と礼拝に参加してる信者さんたちの前で自己開示するセリフを思い出した。

恐いんですよね、はい…
普段奥に閉じ込めてますが恐れは根深くありますもの。だから自分から恐れることなく愛する、信頼しきるってことを学んだりする。

例えば愛やお金や人間関係、無くなっていくことへの恐れ。そもそも愛が無くなるということが勘違いになってることに気づいていく。

そもそも全てが無いから全て満たされて、ここにあるという真実に生きたら自分がどんな感じがしますか?

こんな怖い顔で安心して爆睡しありのまま生きられる、笑笑

ま、冗談は置いといて、恐れから自分の囚われで創り出し捻じ曲げた勘違いに気づいていこう。

愛されたい、愛したい。愛し合いたい。
わたしたちの望みはシンプルだけど、複雑にしてしまっているのは幻想であるというこの世界が実際あるものだと信じている思い込みゆえ。

セッション後、連絡をもらいました。早速自分の在り方が変化し現象が変わり、ずっと繰り返し出てくる思いの土台がわかって嬉しかったと。

でも今日の土台は、急に辿りつけるものではなく、ゆっくりでもコツコツ解放を続けてきたから顔を出した土台となる思い込みの思考パターンだった。

コツコツと自分を浄化ですね。

via PressSync